これは、集英社発行のマンガ作品『鬼滅の刃』(以下「鬼滅」)の何が新しかったのかについて、必殺技を中心に解説する論考である。鬼滅の作品の何が新しく、何が従来通りなのかについて、ネット上には枚挙にいとまがないほどの記事がある。ここでは、比較の焦点を絞るため、この作品が集英社発行の漫画雑誌「週刊少年ジャンプ」(以下「ジャンプ」)における連載作品であるということから、同誌作品との比較を前提としたい。そして、作者の吾峠呼世晴氏が連載当時30歳程度と話題になったことから、世代的に影響を受けたと思われる平成の作品について言及する。結論としては、この作品において血筋や遺伝の描き方が従来のヒット作と異なるということを、必殺技「ヒノカミ神楽」から説明したい。

平成のジャンプマンガ

平成時代にヒットしたジャンプ作品のうち、バトル要素の強いジャンプ作品として、『DRAGON BALL』『ジョジョの奇妙な冒険』、『幽遊白書』、『るろうに剣心』、『ONE PIECE』、『NARUTO』、『BLEACH』、『HUNTER×HUNTER』などがある。これらのうち半数以上が発行部数一億部を超え、日本マンガの歴代売り上げ五位以上に入っているということからも、まさに日本を代表するメジャー作品であるとみなすことができる。『鬼滅の刃』は2020年に最短記録で発行部数一億部を突破し、これらに続く新しいバトルマンガ作品に連なることになったのである。

鬼滅以前の作品として、『NARUTO』という作品をみてみよう。『NARUTO』はそのビジュアルから天真爛漫な主人公と思われていることがあるが、忍者学校で落ちこぼれのうずまきナルトさんが、みんなに認められるために、努力とど根性で這い上がっていくという泥臭い物語だった。そのライバルが「うちは一族」という名のエリート集団の末裔うちはサスケさんだ。努力と才能の二項対立の構図を保ちながら、多様な関係者と対立、相互理解を繰り返していくのである。

しかし中盤に差し掛かると、ナルトさんが里の大天才と呼ばれた四代目里長の一人息子であったことが明らかとなり、話が変わってくる。彼は両親ともに伝説の人物であり、戦闘サラブレッドであることが判明するのだ。こうして連載当初の「努力対才能」の構図は失われていくのだが、基本的にはみな当たり前のように努力し才能がある、そのうえで個性的な各キャラクターたちが信念を持ってどのように行動するのか……、みたいな部分を描くことに重点が置かれていったため、さほど問題とはされなかった。しかし、わたしは覚えていた。ナルトは持たざる者ではなかったのだ。

バトルマンガにおける父と息子

もうひとつ見てみよう。昭和に始まったものの平成のエンタテイメントに重大な影響を与えたドラゴンボールの主人公孫悟空さんは、当初ただの「野生児的な強いやつ」だったが、途中で「戦闘民族サイヤ人(宇宙人)」であることが発覚する。父親ももちろん立派なサイヤ人である。サイヤ人の王子ベジータさんは当初悟空さんをバカにするが、物語が進むにつれエリート主義から脱していく。ナルトと同様、ジャンプではエリート思想は強力に否定される。しかしその一方で、特別な血筋自体は大切なエンターテイメント要素であり、主人公の属性として大いに利用される。DRAGON BALL、幽遊白書、ワンピース、ナルト、BLEACHHUNTERJOJO。ぜひ読んだことがあるマンガを思い出して欲しいのだが、るろうに剣心の緋村抜刀斎さん以外、みな強い父親がいる、という設定である。

もちろんこの「特別な血筋」設定は、決していたずらに追加されるわけではない。たいていは、新章のための設定か、バトルもののパワーインフレに対応する形で登場する。どういうことかというと、今までとは比べ物にならないくらいの強い敵を倒すためには、予想できる範囲での努力や才能だけでは足らず、別の角度からの突破口的な理由が必要となる。少なくとも少年マンガ界隈には、「主人公が最も強い」という現象の理由として、遺伝がある種の論理的な説得力のある説明として機能するのだ。これが、平成の少年ジャンプのバトルものの、一つの特徴といえるだろう。

リアリティと当事者性の問題

同時に、世の中にはいろいろな読者がいるものである。筆者は少年漫画を楽しむ読者のひとりではあるが、個人的には血筋が重要であるという話の流れになってきた時点で少し冷めてしまう。というのも、偉い親から偉い子供が生まれるかというと、もちろんそうとは限らないからだ。特定の形質(たとえば身体的強さとか速さとか、賢さとかのわかりやすい特徴)が狙って出てくるとは限らず、遺伝は多様な形質と組み合わせで出現する。そして人類の拡散を考えてみると、何を指標に一族や血筋と区切るのかは本当に恣意的な判断であるといわざるをえない。

加えて、少年マンガにおいては仕方のないことと諦めているのだが、「父親と息子」設定が出現したとたん、あなたは蚊帳の外だよ、と心の中の女の子に囁かれた気持ちになる。不快感や反発はないが、少なくとも他人事の設定である。当然ながら自分の好みに100%合う物語などあるはずがないので、読者はひとつのマイナス要素があっても読み続けるものである。ただし、ひとりの創作者としては、もし自分がバトルマンガを描くのであれば、血筋が戦略のキーポイントとなるような作品は描かないとおもうし、なんとかそれを回避しようと頭をひねるだろう。

鬼滅における最終兵器

ここで鬼滅に話を戻すと、主人公の竈門炭治郎さんは、なんの特別な血筋でもなかった。このことはたびたび指摘されてきたことであるが、この作品は、そのことを最後まで貫き通した作品であった。主人公の炭治郎さんが、最恐の鬼である鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)さんを倒すために直接的に必要な要素として作中に描かれたものが4つある。それが(1)努力、(2)仲間、(3)戦国時代の刀、そして(4)必殺技のヒノカミ神楽である。それぞれが従来描かれてきたものとは絶妙なズレを持つと評価できるのだが、(4)の必殺技は、次元が異なるくらい別のものと筆者にはうつる。この作品の作者が、遺伝の論理を採用せずに強大な敵を倒す最終手段としてベースとしたのが、日本各地に伝わるお神楽なのである。

ヒノカミ神楽は、複数の演舞からなる戦いの型の総称である。一晩中舞い続け、鬼と朝まで戦い、日の光にさらして倒す、という戦術のための技である。これを、炭治郎さんはご先祖さまから学び、受け継ぐことになった。元々のヒノカミ神楽は、戦国時代に鬼舞辻無惨を追っていた「ものすごく強いお侍さん」が作ったものだ。

この必殺技の特徴は、「攻撃力が高い技」ではなくて、「一晩中踊りながら戦い続ける技」という点である。炭治郎さんは、鬼舞辻無惨を最後の一太刀で切り裂いた……のではなく、踊り続けて時間をかせぎ、下っ端から柱まで、あらゆる立場の仲間たちと断続的に協力して、朝日の元にさらすことで、ようやっと倒すのである。

このような、最後の最後にこれまでのあらゆる仲間が協力に駆けつける、というような終わり方は他に例がないわけではない。マンガを描く側として看過できないのは、必殺技がもたらされる経緯である。神楽を作った強い侍を直接の炭治郎の祖先とするのではなく、ご先祖が動きを覚えて、それを伝えて、、、と間接的なつながりであることが丁寧に描かれている。

鬼滅は、全体的にスピーディーな進行の作品である。なぜこの部分だけは、わざわざ遠回りな設定にしたのだろう。考えてみてほしいのだが、優しく謙虚な炭治郎さんが、実はものすごいお侍さんの子孫であった!という設定は「これまでのジャンプ的に」十分に「アガる」ではないか。どうして、感情の起伏を起こしにくい「神楽を学んだんだなあ」という設定にし、血のつながりがないというエピソードの方を丁寧に描いたのだろうか。このような設定によって、割合多くの読者にとっては、ヒノカミ神楽の獲得は印象に残りにくくなっているのではないだろうか。最終必殺技のインパクトを犠牲にしてまで、このような展開にしているのはなぜだろうか。

共同体の知と実践である神楽

ひとつの創作物が生まれるにはいろいろな理由があり、わたしがそれを的確に言い当てることができるとはおもえない。しかしここで言えるのは、この必殺技の伝達の経緯を丁寧に描いたことによって、「強い個体の子孫は強い」という遺伝の論理ではなく、神楽という共同体の知や手法を用いて、特別でない個体(つまり炭治郎さん)が強大な敵を(仲間と協力して)倒すことに成功する。鬼滅の刃が、そのようなマンガになっているということである。

同じマンガを描く身として、わたしはとても悔しくおもった。そうか……血筋を避けて、何を使うかっていうと、神楽か……すごいな……思いつかなかった……

筆者は何年も前に宮崎県のシラミ神楽を見学したことがある。神職の人々が一晩中神楽を舞い、集落の老若男女が見守る。祭壇には猪の頭が供えられている。いまだ日本中に、このような多種多様な共同体の神事が残っているはずだ。この「朝まで舞う」という神楽の要素と「鬼を陽の光に晒すために朝まで戦わないといけない」という作中の戦術を重ね合わせるなんて、なんてセンスなんだろうと、わたしは勝手に感嘆していたのである。

さらに、わたしの出身地である北部九州ではかねてより地域の御神楽が多少盛り上がっており、それを追っかける友達もいる。つまりわたしはこのトピックに多少身近なはずだったのだが、しかしそれをマンガに盛り込むことはまったく思いつかなかった。わたしは作家としてとても悔しがりながら、この論考を書いているのである。

日本のバトルマンガの新たな局面

確認しておきたいのは、鬼滅の刃という作品に血筋要素が少ないわけではなく、むしろ敵味方かかわらず山ほど家族や血に関わるエピソードがてんこ盛りで出てくることである。仲間のみなさんの多くは「稀血(まれち)」と呼ばれる血筋の方々で、その名付けには、引くほどのこの上ない特別感がある。しかしだからこそ、彼らに囲まれた炭治郎さん(と親友の善逸さん、伊之助さん)が、まったく遺伝に頼らず戦っているということの特異性が浮き彫りになるようにおもわれる。

主人公の強さの論理として血筋・遺伝が使われなかったこと、しかもその代案として使われているのが「神楽」であるという点は、従来の平成バトル作品との重大なちがいである。日本でもてはやされてきた遺伝の論理を用いずに、「持たざる者」がどのように主役になれるのか。鬼滅の刃はそのような難解な問題を、日本で最も売れた誌面で紐解いてみせた作品であった。ヒノカミ神楽は「優しい一般人」が最期の敵を倒すことを実現するための、大変珍しい必殺技なのである。

奇抜な設定のマンガ、アウトローなマンガ、民俗学的知識を盛り込んだマンガなどなど、日本には多様なマンガがある。鬼滅の刃の特異性は、それらの要素をさりげなく盛り込んだ上、エンターテイメントとして成功し多くの人々に受け入れられたことにある。どんなに高い志があっても、商業誌の都合上、掲載雑誌の売り上げに貢献できなければ連載を続けることさえもできない。そういう意味で、鬼滅の刃が従来のエンターテイメントに対してアンチテーゼに満ちながらも、むしろメジャー性を勝ち取り、その世界観をより広い層に展開できたことの意義は小さくない。今後、日本のバトルマンガがどのように変化していくか、見守っていきたいとおもう。


大津留香織(おおつるかおり)
人類学者、漫画家、イラストレーター。
台南応用科技大学助理教授。博士(学術)。バヌアツ共和国にてフィールドワーク調査、法と人類学の葛藤解決研究に共感と物語の研究を取り入れる。近年は漫画表現を中心としたメディア研究に取り組む。研究のかたわら創作活動を続ける。主著に『関係修復の人類学』(2020)、『人権漫画の描き方』(2024)。