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「マンガにかかわる」を再考する

vol.002「マンガにかかわる」を再考する

「マンガにかかわる」を再考する


大津留香織



このたび、ウェブマガジン “-oid” の特集テーマを「マンガ」とし、関係する人々のインタビューやレポート記事、評論などをお届けすることになった。サブカルチャーであったマンガはアニメを通して世界に輸出され、今や日本の最も重要な文化産業であると捉えて差し支えない。いまだにハイカルチャーではないと把握されながら、大学における関連学科の設置、行政とのコラボレーション、専門博物館の開館など、マンガに関する動きは衰えることがないどころか、その社会や経済に対する影響は増すばかりである。

 翻って、これらの活動が「おもしろいマンガ」を生み出すための影響力を持つのかについて、筆者は多少懐疑的である。上記の活動は、産業を活性化したりマンガ作品自体の保存を促進するかもしれないが、それらによって魅力ある作品ができるかどうかは別の話なのである。たとえば関連の博物館や大学を作ることによって、これからの漫画家たちの育成につながる、というような論は、簡単に覆すことができる。というのも、これまで世界を席巻した数々の作品は、上記のような施設がない中で生まれたのであるから、大学や博物館の設置と「優れた作家の育成」には、因果関係を確立することが本来難しいはずだ。それよりも、手塚治虫にならって世界名作童話を片っ端から読ませたり、藤子A/F不二雄にならって365日映画館に通える無料チケットを配ったり、松本零士にならって貧乏暮らしの中でミカン箱を机にさせたりした方が、作家の良い成長につながるという可能性も捨てきれないではないか。

 もちろん筆者は、上記のような社会的な動きと素晴らしいマンガ作品の誕生が、まったく無関係であると思っているわけではない。特に、いつでも気軽に漫画や小説が読める施設は、マンガに出会い表現を蓄積するために小さくない影響があると予想している。しかし、たとえば小説ならば、大学や博物館の有無と関係なく、世界中で優れた作品が生み出され続けていることとおもうと、特に物語制作と社会インフラは、ほとんど関係がないような気がしてくる。

 このような疑問が解決してないのは、そもそも優れたマンガ作品がどのように生まれるのか明らかにされていない(あるいは興味が持たれてない)という点にある。にもかかわらず、施設を作ることや企画をおこなうことが優先されている現状がある。マンガを描くのはある個人や集団であり、マンガイベントそのものが新しい作品を生み出すわけではないはずだ。この乖離は、マンガの内容自体や、マンガを描く、マンガを売る人、展示する人、といったそこに関わる当事者が、どのような存在なのか興味が持たれなかったことと関連している。

 マンガ・アニメは一大産業であるが、物語の内容自体に興味を持つことは「オタク的」であり、数字にのみ注目することがスマートであるかのような“空気を感じる”ことが多々ある。もしピケティの展示ならば、美術館関係者がピケティに詳しいことは賞賛されることであるが、マンガに関しては「私は作品は全部読んでないんですがね」と未読であることのほうが社会人としてスマートであるかのような振る舞いに捉えられることがある。すなわちこれこそマンガ・アニメがサブカルチャーであるとされる所以であろう。「マンガは数字を持っている」ことは確かだが、一方でその数字への期待がひとり歩きし、創作の場を置き去りにしてはいないだろうか。
 このことについて掘り下げるために、以下では台灣の国家漫画博物館(國家漫畫博物館)のオープニング記念式典のレポートを書いてみたいとおもう。これによって、行政がマンガを扱っている現場についてのひとつの事例として「展示すること」を考えてみたい。
“マンガを展示する”台灣国家漫画博物館

筆者は、台湾の台南應用科技大學のマンガ学科において教員として勤めている。その都合上、台湾や日本のマンガやアニメに関する情報を得やすい立場におり、自分や学生たちを取り巻く環境を含めて、マンガ文化の動向について考える機会が多いのである。
 2023年12月23日に、台灣台中市で国家漫画博物館がオープンした。これまで台灣には、漫画図書館、そしてマンガ情報発信基地であるマンガBASE(漫畫基地)はあった。しかし、台灣のマンガ文化のさらなる発展のために、マンガ博物館が必要だという言説をたびたび耳にすることがあった。

 そうしたなか台中市での設立が決定したという報告を、オープンわずか半年前の2023年4月に聞くことになった。私はそれを台南市の国立歴史博物館の方々から聞いたのだが、そのとき居合わせた外部の関係者は、その瞬間まで台南市に建設されると思っていたと驚いていた。実際に完成した施設は台中にあった日本統治時代の刑務所を再利用している。古い建物を観光施設や文化施設としてリノベーションするのは台灣でよくみられるまちづくりの手法である。明治大正時代の施設を、補修期間を含めて8ヶ月程度でオープンまでこぎつけた手腕は、さすが台灣というほかない。この博物館は、これから時間をかけて順次設備が増えていく予定であるという。

 旧来の博物館のイメージとは異なり、街中にある気持ちのいい公園のような空間に和式の平屋が点在しており、それぞれで展示やイベントが行われる。見た目にもフラットな、風通しの良い施設である。当日の開会式で繰り返されたスローガンは「本当に来たよ!(真的來了!)」であり、ここまでに紆余曲折があったことが推察される。オープン記念式典には、文化局や台中市政の政治家たちがかけつけ、新聞報道されていた。彼らは選挙を控えているのだ、と現場の人々はあけすけに説明してくれた。
 もちろん「本当に来た」とわざわざ言う理由は、政治的に振り回されて時間がかかった、という理由だけではないだろう。当然ながらマンガの持つ価値と魅力が認められ、そしてその価値へ多くの人がアクセスしやすくなることに対する台灣市民の感激を表すための「本当に来た!」の意味もあるはずだ。

マンガの価値や意味、そして解釈

では、マンガというひとつの表現ジャンルについて、一体どんな価値が、彼ら台灣の人々の心を掴んでいるというのだろうか。表現か内容か、感情や論理か。純情やバイオレンスか。オープン記念式典には、京都国際マンガミュージアムから勝島啓介事務局長、北九州市漫画ミュージアムから田中時彦館長が来賓として出席していた。台灣文化局は、博物館建設にあたって、海外はもとより、特に日本における漫画博物館の運営を参考にしたはずである。

 日帝時代の建物だけではなく、展示の内容を見てみれば、そこかしこに日本の影響を感じることになる。「ジャンプ」や「マガジン」、「なかよし」といった日本の有名雑誌・人気作品の翻訳版が展示されており、雑誌だけであれば台灣マンガよりも閉める面積がずっと大きい。ちばてつやや里中真知子の挨拶ムービーが流され、いのまたむつみのイラスト原画が手に届くところに飾られている。私たちはアメリカンコミックやバンド・デシネの大きな存在をよく理解しているものの、台灣の漫画業界に限っては、日本からの輸入作品が大きな影響力を持つといっていいだろう。「ドラえもん」や「スラムダンク」といった人気マンガの海賊版がわざわざ展示されているのは、違法ながらも台灣のマンガに歴史的に影響してきた物品として広く認知されているからである。それらの無数の日本マンガ作品と、それらに対するファンの情熱が伝わってくる。

 日本のマンガ作品を原文のまま読み、また展示作品をよく知っている私のような日本人からすれば、これらの作品が大々的に受け入れられ(さらには厳選して博物館に飾られることによってある種の権威付けが意図せずともなされることについて複雑さを感じつつ)、嬉しさよりは不思議さのほうがずっと強く喚起されてくる。台灣の人々は、本当にこの作品を面白いと思っているのだろうか、面白いと思っているポイントは本当に同じだろうか……?読者が作品に対して抱く「面白さ」は、つまりは解釈であり、たとえ日本人同士でも同じかどうかはわからない。私は台湾に認められた日本のマンガを前に、この素朴な疑問を抱かずにいられない。

 意味の読み取りに個人差があることは前提として、もっと大きな集団としての台灣の読者たちの「読み」の中央値的な解釈はきっとあるだろうし、それと日本人読者の中央値がまったく一致するわけではないだろうと推測はするのだが、それらを証明することはなかなか難しそうである。この仮説の強化材料として提示できるものがあるとすれば、それは台灣の人たちが描いたマンガであろう。「描き」は「読み」を経てなされるので、日本漫画をたくさん読んでいる台灣の人が、どのようにマンガを描くかによって、日本漫画から何を受け取っているのかを間接的に理解できるかもしれない。

たとえばオノマトペ

台灣と日本のマンガの違いで気づきやすい要素のひとつはオノマトペである。漫畫博物館のオープン記念と同時になされた展示のなかには、台灣作家「鐡柱」氏の複製原画展もあった。彼の作品「金甲玫瑰」には、北京語と日本語のオノマトペが混在している。北京語、すなわち漢字はそれそのものが意味を持つことになり、それは音に優先する場合がある。例えばキャラクターが何かを蹴るシーンがあれば、日本であれば「ドカッ」とか「バキッ」などが描かれるところだが、北京語であれば「蹴!」(cu)と描かれる。観客の歓声の場面に「呼ー!」(hu)と大文字で描かれたりする。これらはキャラクターの行動が説明されることになるため、画面で何が起こっているのかの説明的な役割も果たす。

 一方で鐡柱氏の原稿の中には、たとえば水に浮かぶ場面で「プタプタ」とカタカナで描いてある場面があり目を引く。鐡柱氏によると、「これは音だ、台灣人もわかる」という。他にも、ボクシング的競技で顔面を殴るときに「ポ」、「フア、、」と描いてある。日本だったら「フア」だと柔らかいものに当たった音と受け取られてしまうため、編集者に注意されるだろう。他にも殴った場面の「ピャ」はギリギリ変化球のオノマトペとして通用するかもしれない……などと考えているうちに、日本マンガのオノマトペにはやはり確固としたルールがあり、同時にこんなにも簡単にはずれてしまえるということに気付かされる。

 鐡柱氏のカタカナは、日本人が捉えるようなオノマトペの役割と多少異なる。それは特定の音の記号というよりは、太字のカタカナが画面に書いてあることで、日本の漫画らしさを演出する働きをする記号でもある。鐡柱氏が言うからには多分それは概念として音なのだろうが、それは日本人とは異なる響きや意味合いの音のはずである。マンガという世界のなかだけで通用する、目で聞く音である。そのカタカナは、日本人には不自然だが、台灣では目で見て自然に聞こえてくる音となりうる。

スタイルの伝達と変化

こうして、少なくとも日本で生まれたマンガ作品の表現が、台灣の地で多少なりとも取り入れられ、新たな表現へと変化し続けていると記述しても、間違いはないようにおもう。それは個人のミクロな活動にも、台灣全体のマクロな活動にも当てはまる。多くの台灣作家が、日本のマンガやアニメを鑑賞し、自分の表現に取り入れている。台灣の最も有名なマンガ賞「金漫奨」の受賞作品には、日本のマンガの面影が随所に見られる。そして同時に台灣のマンガ関係者は「もっと台灣らしいマンガ」を求めている。

 台灣らしいマンガ、とはなんだろうか。個別の漫画作品はそれぞれ異なる表現をそなえているはずだ。にもかかわらず「台灣」風や「日本」風とでもいうべきマクロな雰囲気を感じ取ることができるのは不思議なことである。そしてそれは私だけではなく、日本のマンガをたくさん読んできた無数の読者たちも同様であろうとおもう。つまり、台灣のマンガと日本のマンガを、作風から見分けることができるのである。ここでは、あえてそのスタイルの違いを「文体」と呼びたい。台灣のマンガ描画の文体と、日本の文体は異なるのである。ただし、台灣のマンガと香港の漫画の文体の違いはわからないため、結局自分には日本の文体かそうでないか、ということくらいしかわからないのだろうとおもう。

 このような文体に違いがでること自体は驚くに当たらない。インターネットが発達しているとはいえ、言語や流通の区分から、地域差が出てくるのは当然である。台灣内であれば日本からの表現がさらに洗練され、定着していくことも考えられる。また、台灣に伝わらない日本の作品も当然あるわけで、それは日本でマンガを読み書きする人々のなかでさらに練られていくかもしれない。

 さらには映画や小説、社会的現象などなど、台灣と日本の環境が持つその他無数の要因によって、マンガ表現は地域化していくだろう。いわば方言のように、マンガ表現に地域差が出てくる。現に、年代によって絵が変わるし(いわゆる絵が古いといわれる年代依存のスタイル)、雑誌を変えるだけで絵や漫画のリズム(文体)が変わってくること(いわゆる少女漫画風の絵、といったジャンル依存のスタイル)を考えると、国を隔てれば表現が変わることは当然ともいえる。むしろ国を隔てているのに、文体ともいうべき些細な違いしか生じていない、という点で、マンガ表現は特異な位置付けにある。

様々なアクター

以上のように、筆者は博物館や美術館を訪れたことで、マンガについて新しい研究的洞察を得た。筆者にとっては大変ありがたい存在である。しかしそれはやはり、マンガ研究の促進の部類の気づきを得たのにすぎないのであって、他の作家たちにとって次の創作を直接的に生み出す原動力にはなっていないのである。博物館の展示は、ある種の新たな成果物である。もちろんそれらがマンガ文化を豊かにし、周り回ってマンガ文化の成立に繋がっていくのだというのであれば、人類学的には、まずはそれらを担っている個別のアクターたちの現場をひとつの事例としてより真剣に見つめる必要がある。

 博物館の展開を含めて、現代では日本のマンガやアニメがかなりカジュアルに、一般的なものとして受け入れられ始めている。それにともなって、マンガに関係する諸所のアクターたちも多様になっている。かつては、作者と読者、編集者、そして出版社と印刷所、読者と本屋さん、くらいだったマンガ関係者は、翻訳者・海外出版社・司書・大学教員・学芸員・行政担当者などなど、急速に膨らんできた。マンガを活用するNPOや市民活動、そして行政活動があるなどということは、かつては考えられなかっただろう。一方で、商業主義とは距離を置き、同人誌活動というごく個人的な創作出版活動を楽しんでいる人々も、日本には大勢いる。そのような人々で、日本のマンガ文化はできている。

 この特集では、上記のような観点から、社会的影響力を持つ活動のなかでもより創作の現場に近い距離で、マンガ文化に関わっている人々をアクターとして位置付け、現代マンガの新しい局面を描き出すことを試みたい。今回は各分野の関係者に寄稿していただいた。これによって、現代のマンガ文化がどのように展開されているのか、そしてそれらによって、膨大なマンガの世界の深淵さを、明らかにするための一助となれば幸いである。


大津留香織(おおつるかおり)
人類学者、漫画家、イラストレーター。
台南応用科技大学助理教授。博士(学術)。バヌアツ共和国にてフィールドワーク調査、法と人類学の葛藤解決研究に共感と物語の研究を取り入れる。近年は漫画表現を中心としたメディア研究に取り組む。研究のかたわら創作活動を続ける。主著に『関係修復の人類学』(2020)、『人権漫画の描き方』(2024)。



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大津留香織



このたび、ウェブマガジン “-oid” の特集テーマを「マンガ」とし、関係する人々のインタビューやレポート記事、評論などをお届けすることになった。サブカルチャーであったマンガはアニメを通して世界に輸出され、今や日本の最も重要な文化産業であると捉えて差し支えない。いまだにハイカルチャーではないと把握されながら、大学における関連学科の設置、行政とのコラボレーション、専門博物館の開館など、マンガに関する動きは衰えることがないどころか、その社会や経済に対する影響は増すばかりである。

 翻って、これらの活動が「おもしろいマンガ」を生み出すための影響力を持つのかについて、筆者は多少懐疑的である。上記の活動は、産業を活性化したりマンガ作品自体の保存を促進するかもしれないが、それらによって魅力ある作品ができるかどうかは別の話なのである。たとえば関連の博物館や大学を作ることによって、これからの漫画家たちの育成につながる、というような論は、簡単に覆すことができる。というのも、これまで世界を席巻した数々の作品は、上記のような施設がない中で生まれたのであるから、大学や博物館の設置と「優れた作家の育成」には、因果関係を確立することが本来難しいはずだ。それよりも、手塚治虫にならって世界名作童話を片っ端から読ませたり、藤子A/F不二雄にならって365日映画館に通える無料チケットを配ったり、松本零士にならって貧乏暮らしの中でミカン箱を机にさせたりした方が、作家の良い成長につながるという可能性も捨てきれないではないか。

 もちろん筆者は、上記のような社会的な動きと素晴らしいマンガ作品の誕生が、まったく無関係であると思っているわけではない。特に、いつでも気軽に漫画や小説が読める施設は、マンガに出会い表現を蓄積するために小さくない影響があると予想している。しかし、たとえば小説ならば、大学や博物館の有無と関係なく、世界中で優れた作品が生み出され続けていることとおもうと、特に物語制作と社会インフラは、ほとんど関係がないような気がしてくる。

 このような疑問が解決してないのは、そもそも優れたマンガ作品がどのように生まれるのか明らかにされていない(あるいは興味が持たれてない)という点にある。にもかかわらず、施設を作ることや企画をおこなうことが優先されている現状がある。マンガを描くのはある個人や集団であり、マンガイベントそのものが新しい作品を生み出すわけではないはずだ。この乖離は、マンガの内容自体や、マンガを描く、マンガを売る人、展示する人、といったそこに関わる当事者が、どのような存在なのか興味が持たれなかったことと関連している。

 マンガ・アニメは一大産業であるが、物語の内容自体に興味を持つことは「オタク的」であり、数字にのみ注目することがスマートであるかのような“空気を感じる”ことが多々ある。もしピケティの展示ならば、美術館関係者がピケティに詳しいことは賞賛されることであるが、マンガに関しては「私は作品は全部読んでないんですがね」と未読であることのほうが社会人としてスマートであるかのような振る舞いに捉えられることがある。すなわちこれこそマンガ・アニメがサブカルチャーであるとされる所以であろう。「マンガは数字を持っている」ことは確かだが、一方でその数字への期待がひとり歩きし、創作の場を置き去りにしてはいないだろうか。

 このことについて掘り下げるために、以下では台灣の国家漫画博物館(國家漫畫博物館)のオープニング記念式典のレポートを書いてみたいとおもう。これによって、行政がマンガを扱っている現場についてのひとつの事例として「展示すること」を考えてみたい。
“マンガを展示する”台灣国家漫画博物館

筆者は、台湾の台南應用科技大學のマンガ学科において教員として勤めている。その都合上、台湾や日本のマンガやアニメに関する情報を得やすい立場におり、自分や学生たちを取り巻く環境を含めて、マンガ文化の動向について考える機会が多いのである。
 2023年12月23日に、台灣台中市で国家漫画博物館がオープンした。これまで台灣には、漫画図書館、そしてマンガ情報発信基地であるマンガBASE(漫畫基地)はあった。しかし、台灣のマンガ文化のさらなる発展のために、マンガ博物館が必要だという言説をたびたび耳にすることがあった。

 そうしたなか台中市での設立が決定したという報告を、オープンわずか半年前の2023年4月に聞くことになった。私はそれを台南市の国立歴史博物館の方々から聞いたのだが、そのとき居合わせた外部の関係者は、その瞬間まで台南市に建設されると思っていたと驚いていた。実際に完成した施設は台中にあった日本統治時代の刑務所を再利用している。古い建物を観光施設や文化施設としてリノベーションするのは台灣でよくみられるまちづくりの手法である。明治大正時代の施設を、補修期間を含めて8ヶ月程度でオープンまでこぎつけた手腕は、さすが台灣というほかない。この博物館は、これから時間をかけて順次設備が増えていく予定であるという。

 旧来の博物館のイメージとは異なり、街中にある気持ちのいい公園のような空間に和式の平屋が点在しており、それぞれで展示やイベントが行われる。見た目にもフラットな、風通しの良い施設である。当日の開会式で繰り返されたスローガンは「本当に来たよ!(真的來了!)」であり、ここまでに紆余曲折があったことが推察される。オープン記念式典には、文化局や台中市政の政治家たちがかけつけ、新聞報道されていた。彼らは選挙を控えているのだ、と現場の人々はあけすけに説明してくれた。
 もちろん「本当に来た」とわざわざ言う理由は、政治的に振り回されて時間がかかった、という理由だけではないだろう。当然ながらマンガの持つ価値と魅力が認められ、そしてその価値へ多くの人がアクセスしやすくなることに対する台灣市民の感激を表すための「本当に来た!」の意味もあるはずだ。

マンガの価値や意味、そして解釈

では、マンガというひとつの表現ジャンルについて、一体どんな価値が、彼ら台灣の人々の心を掴んでいるというのだろうか。表現か内容か、感情や論理か。純情やバイオレンスか。オープン記念式典には、京都国際マンガミュージアムから勝島啓介事務局長、北九州市漫画ミュージアムから田中時彦館長が来賓として出席していた。台灣文化局は、博物館建設にあたって、海外はもとより、特に日本における漫画博物館の運営を参考にしたはずである。

 日帝時代の建物だけではなく、展示の内容を見てみれば、そこかしこに日本の影響を感じることになる。「ジャンプ」や「マガジン」、「なかよし」といった日本の有名雑誌・人気作品の翻訳版が展示されており、雑誌だけであれば台灣マンガよりも閉める面積がずっと大きい。ちばてつやや里中真知子の挨拶ムービーが流され、いのまたむつみのイラスト原画が手に届くところに飾られている。私たちはアメリカンコミックやバンド・デシネの大きな存在をよく理解しているものの、台灣の漫画業界に限っては、日本からの輸入作品が大きな影響力を持つといっていいだろう。「ドラえもん」や「スラムダンク」といった人気マンガの海賊版がわざわざ展示されているのは、違法ながらも台灣のマンガに歴史的に影響してきた物品として広く認知されているからである。それらの無数の日本マンガ作品と、それらに対するファンの情熱が伝わってくる。

 日本のマンガ作品を原文のまま読み、また展示作品をよく知っている私のような日本人からすれば、これらの作品が大々的に受け入れられ(さらには厳選して博物館に飾られることによってある種の権威付けが意図せずともなされることについて複雑さを感じつつ)、嬉しさよりは不思議さのほうがずっと強く喚起されてくる。台灣の人々は、本当にこの作品を面白いと思っているのだろうか、面白いと思っているポイントは本当に同じだろうか……?読者が作品に対して抱く「面白さ」は、つまりは解釈であり、たとえ日本人同士でも同じかどうかはわからない。私は台湾に認められた日本のマンガを前に、この素朴な疑問を抱かずにいられない。

 意味の読み取りに個人差があることは前提として、もっと大きな集団としての台灣の読者たちの「読み」の中央値的な解釈はきっとあるだろうし、それと日本人読者の中央値がまったく一致するわけではないだろうと推測はするのだが、それらを証明することはなかなか難しそうである。この仮説の強化材料として提示できるものがあるとすれば、それは台灣の人たちが描いたマンガであろう。「描き」は「読み」を経てなされるので、日本漫画をたくさん読んでいる台灣の人が、どのようにマンガを描くかによって、日本漫画から何を受け取っているのかを間接的に理解できるかもしれない。

たとえばオノマトペ

台灣と日本のマンガの違いで気づきやすい要素のひとつはオノマトペである。漫畫博物館のオープン記念と同時になされた展示のなかには、台灣作家「鐡柱」氏の複製原画展もあった。彼の作品「金甲玫瑰」には、北京語と日本語のオノマトペが混在している。北京語、すなわち漢字はそれそのものが意味を持つことになり、それは音に優先する場合がある。例えばキャラクターが何かを蹴るシーンがあれば、日本であれば「ドカッ」とか「バキッ」などが描かれるところだが、北京語であれば「蹴!」(cu)と描かれる。観客の歓声の場面に「呼ー!」(hu)と大文字で描かれたりする。これらはキャラクターの行動が説明されることになるため、画面で何が起こっているのかの説明的な役割も果たす。

 一方で鐡柱氏の原稿の中には、たとえば水に浮かぶ場面で「プタプタ」とカタカナで描いてある場面があり目を引く。鐡柱氏によると、「これは音だ、台灣人もわかる」という。他にも、ボクシング的競技で顔面を殴るときに「ポ」、「フア、、」と描いてある。日本だったら「フア」だと柔らかいものに当たった音と受け取られてしまうため、編集者に注意されるだろう。他にも殴った場面の「ピャ」はギリギリ変化球のオノマトペとして通用するかもしれない……などと考えているうちに、日本マンガのオノマトペにはやはり確固としたルールがあり、同時にこんなにも簡単にはずれてしまえるということに気付かされる。

 鐡柱氏のカタカナは、日本人が捉えるようなオノマトペの役割と多少異なる。それは特定の音の記号というよりは、太字のカタカナが画面に書いてあることで、日本の漫画らしさを演出する働きをする記号でもある。鐡柱氏が言うからには多分それは概念として音なのだろうが、それは日本人とは異なる響きや意味合いの音のはずである。マンガという世界のなかだけで通用する、目で聞く音である。そのカタカナは、日本人には不自然だが、台灣では目で見て自然に聞こえてくる音となりうる。

スタイルの伝達と変化

こうして、少なくとも日本で生まれたマンガ作品の表現が、台灣の地で多少なりとも取り入れられ、新たな表現へと変化し続けていると記述しても、間違いはないようにおもう。それは個人のミクロな活動にも、台灣全体のマクロな活動にも当てはまる。多くの台灣作家が、日本のマンガやアニメを鑑賞し、自分の表現に取り入れている。台灣の最も有名なマンガ賞「金漫奨」の受賞作品には、日本のマンガの面影が随所に見られる。そして同時に台灣のマンガ関係者は「もっと台灣らしいマンガ」を求めている。

 台灣らしいマンガ、とはなんだろうか。個別の漫画作品はそれぞれ異なる表現をそなえているはずだ。にもかかわらず「台灣」風や「日本」風とでもいうべきマクロな雰囲気を感じ取ることができるのは不思議なことである。そしてそれは私だけではなく、日本のマンガをたくさん読んできた無数の読者たちも同様であろうとおもう。つまり、台灣のマンガと日本のマンガを、作風から見分けることができるのである。ここでは、あえてそのスタイルの違いを「文体」と呼びたい。台灣のマンガ描画の文体と、日本の文体は異なるのである。ただし、台灣のマンガと香港の漫画の文体の違いはわからないため、結局自分には日本の文体かそうでないか、ということくらいしかわからないのだろうとおもう。

 このような文体に違いがでること自体は驚くに当たらない。インターネットが発達しているとはいえ、言語や流通の区分から、地域差が出てくるのは当然である。台灣内であれば日本からの表現がさらに洗練され、定着していくことも考えられる。また、台灣に伝わらない日本の作品も当然あるわけで、それは日本でマンガを読み書きする人々のなかでさらに練られていくかもしれない。

 さらには映画や小説、社会的現象などなど、台灣と日本の環境が持つその他無数の要因によって、マンガ表現は地域化していくだろう。いわば方言のように、マンガ表現に地域差が出てくる。現に、年代によって絵が変わるし(いわゆる絵が古いといわれる年代依存のスタイル)、雑誌を変えるだけで絵や漫画のリズム(文体)が変わってくること(いわゆる少女漫画風の絵、といったジャンル依存のスタイル)を考えると、国を隔てれば表現が変わることは当然ともいえる。むしろ国を隔てているのに、文体ともいうべき些細な違いしか生じていない、という点で、マンガ表現は特異な位置付けにある。

様々なアクター

以上のように、筆者は博物館や美術館を訪れたことで、マンガについて新しい研究的洞察を得た。筆者にとっては大変ありがたい存在である。しかしそれはやはり、マンガ研究の促進の部類の気づきを得たのにすぎないのであって、他の作家たちにとって次の創作を直接的に生み出す原動力にはなっていないのである。博物館の展示は、ある種の新たな成果物である。もちろんそれらがマンガ文化を豊かにし、周り回ってマンガ文化の成立に繋がっていくのだというのであれば、人類学的には、まずはそれらを担っている個別のアクターたちの現場をひとつの事例としてより真剣に見つめる必要がある。

 博物館の展開を含めて、現代では日本のマンガやアニメがかなりカジュアルに、一般的なものとして受け入れられ始めている。それにともなって、マンガに関係する諸所のアクターたちも多様になっている。かつては、作者と読者、編集者、そして出版社と印刷所、読者と本屋さん、くらいだったマンガ関係者は、翻訳者・海外出版社・司書・大学教員・学芸員・行政担当者などなど、急速に膨らんできた。マンガを活用するNPOや市民活動、そして行政活動があるなどということは、かつては考えられなかっただろう。一方で、商業主義とは距離を置き、同人誌活動というごく個人的な創作出版活動を楽しんでいる人々も、日本には大勢いる。そのような人々で、日本のマンガ文化はできている。

 この特集では、上記のような観点から、社会的影響力を持つ活動のなかでもより創作の現場に近い距離で、マンガ文化に関わっている人々をアクターとして位置付け、現代マンガの新しい局面を描き出すことを試みたい。今回は各分野の関係者に寄稿していただいた。これによって、現代のマンガ文化がどのように展開されているのか、そしてそれらによって、膨大なマンガの世界の深淵さを、明らかにするための一助となれば幸いである。

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コロナ禍と協働的なアートのゆくえ

vol.001コロナ禍と協働的なアートのゆくえ

画像提供:The Archive of Public Protests, Digital Photo, 2020. Courtesy of Artists.

登 久希子


 2020年の年明けから徐々にくすぶりはじめた「コロナ禍」は春先までにはあっという間に世界中を混乱に陥れ、それぞれの日常的な計画や普段の生活を激変させてしまった。コロナ禍は終わったわけではなく、まだまだ今後を模索していく段階にある。だが、つくり手、鑑賞者、研究者を含めたアートの現場に関わる人たちの、およそ2年における経験をここで一度まとめて聞き、読み、考えてみることは今後の模索のプロセスのためにも重要だと思う。この特集では「協働」や「参加」が重要な意味をもつ作品やプロジェクトと関わりのあるアーティストや関係者が、コロナ禍をいかに生きてきたのか、コロナ禍を経て彼/彼女らの制作や世界の見方がどのように変化しているのか、その一端をインタヴューや寄稿を通して明らかにし、これからのアートをいかに語る/みる(*1)/研究していくのかについて考えていきたい。人やものとの物理的な接触を最小限に抑えることが推奨され、さまざまな実践がオンラインへと移行したなかで、他者との直接的で協働的な関わりを重要視してきたアートに、またそのようなアートとの関わり方に、コロナ禍はどのような影響や変化をもたらしたのだろうか。あるいは変わらなかったことは何なのだろうか。そんな問いに対する考察を深めるためにも、ここで書かれたり語られたりすることは多くの示唆を与えてくれるだろう。 

シンポジウムからオンラインのプラットフォームへ


 はじめに、このウェブサイトができた経緯を少しだけ説明しておきたい。それもコロナ禍と大いに関係のある話だから。人類学でアートの研究を行なってきたわたしは、社会的な課題や問題に着目し、アート的な手法を用いてそれらにアプローチを行う実践についてリサーチしてきた。欧米では「ソーシャル・プラクティス」や「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」と呼ばれるような実践だ。合計3年間の計画で、まとめとして研究者や現場にたずさわる専門家、アーティストを招いたシンポジウムを開催したいと考えていた。シンポジウムは、学術的で専門的すぎるものではなく、より広く分野の垣根をこえて、トピックに関心のある人に来てもらえるような機会にしたかった。しかし残り1年、というときにCOVID-19の感染拡大がはじまり、予定していた現地での調査ができなくなってしまった。とくに人類学にとって現地調査/フィールドワークは不可欠であり、現場での直接的かつ長期的で緊密なやりとりの中から議論を立ち上げていくことが望ましいとされてきた。従来的なスタイルのフィールドワークは、国外への渡航が制限されていたり「三密」の回避が推奨されているような場ではなかなか遂行が難しい。そもそも、わたしが調査していた参加者との協働を前提とする「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」自体、その多くがコロナ禍において行えなくなってしまった。しかし一方では、オンラインを用いた参加型の試みも始まるなど、研究対象の変化と研究方法の変化は同時に進んでいった。
 当初、成果発表と交流の場としてのシンポジウムはオンラインで行うしかないと考えていたが、オンライン上で一度きりの場として終わってしまうのは残念だった。たくさんのセミナーやミーティングなどをオンラインで経験するなかで、その便利さがありがたい一方、経験としてあまりにも平坦なことに物足りなさを感じていたからだ。そこで、せめてより持続的に書いたものを共有したり、アイデアや情報の交換ができる場所をつくれないかと、シンポジウムをオンライン上のプラットフォームにすることに思い至った。それは持続的に可変で、多くの人を巻き込んで、一人では決して成し遂げ得ないような展開を可能にするはずであり、わたしがリサーチしてきたようなアート実践とも、本質的に協働的な学問としての人類学とも共通するあり方だと思う。

コロナ禍におけるそれぞれの経験


 この特集では、日本だけではなく海外のアーティストや専門家にもコロナ禍における経験や状況をインタヴューあるいは寄稿のかたちで語ってもらった。インタヴューの場合は、事前にいくつか質問項目を設けつつ、会話の流れに沿ってオープンなかたちで行われた。寄稿の場合は、大まかなテーマをお伝えして、自分の仕事や研究と関係する話題で書いてもらった。暮らす地域も立場も異なる人たちの声を並べてみると、ソーシャルディスタンスやマスクの着用といった感染防止策に起因するさまざまな経験や見方の共通点が浮かび上がってきたり、COVID-19とは直接的に関係しないかに思える問題が予期せず共通して語られたり、それぞれの語りの一部が他の記事と呼応していたり、個別に書き、話を聞いているはずが一連の対話になっているようにも思えてくる内容になっていた。5つの論考と7つのインタヴュー記事は、読む人によって異なった読まれ方をする。ここでは敢えて大きなまとめは行わないが、いくつかの共通する内容、今後さらに考えてみたいと思ったトピックを挙げてみたい。

オンラインの取り組み

コロナ禍において、Zoom Meetings等の「web会議システム」は仕事の打ち合わせや学校の授業だけでなくアートの分野においても多様に用いられてきた。例えばこの2年ほどのあいだ、従来的なレジデンスに参加していたアーティストもいれば、実地でのレジデンスに代わってオンラインのレジデンスを展開したり、それらを並行して行う団体もあった(「新型コロナウイルスの世界的流行とアーティスト・イン・レジデンス ―アーカスプロジェクトの2年を振り返って」)。とくにアーティストのさまざまなライフスタイルに適応できるという点で、オンラインによるレジデンスがオフラインの代替ではなく、今後も展開していく可能性をもったあり方として語られている点は重要だ。それが、後述の「女性アーティストの困難」に対するひとつのアプローチとして提示されている点も見逃せない(「学び合いの場づくりの広がり―コロナ禍の変化から 堀内奈穂子さん (NPO 法人アーツイニシアティヴトウキョウ[AIT エイト]キュレーター)」)。いずれにしろコロナ禍は、物理的な移動を前提とするアーティストインレジデンスとレジデンス的な制作のあり方の再考を促したと言える。
 美術館においては、以前からの懸案事項だったオンラインチケットの導入がコロナ禍で加速されたというメリットも指摘された。また来日できない作家によるオンラインでの遠隔指示によって展示空間づくりがなされるなど、今後のオンライン活用の可能性が示唆された一方で、展示する「ヴィデオの色味」の確認などその限界も指摘されている(「すでにある変化と未来の美術館」)。このように、対面からオンラインへの移行は悪いことばかりではないものの、あらゆる感覚を総動員する実地での経験とは異なる点が後者において強く意識される。オフラインと近い効果をオンラインでもたらすために、さまざまな調整がなされることがある。その一例は、例えばパランセクのオンライン練習会の様子にも明らかだ(「街に出よ──芸能愛好者の語りと地域実践の手ざわり」)。面白い点は、かつての練習会を念頭にオンラインで試行錯誤がなされるなか、各自がスクリーンの前で行った演奏の映像が編集によって重ね合わされることで、「心の中で行っていた合奏」が映像として再現前するという、思いがけない副産物が生じたことだろう。
 さらにコロナ禍では、オフラインを想定しない、そもそもオンラインで行うことを前提とした作品や展覧会等も数多くなされてきた。あるいは郵便や電話といったコミュニケーション手段に再び光が当てられるようなアート実践もあった。オンラインとオフラインが交錯する日常において、どのような偶然や必然が私たちの意識や理解をより豊かなものにしていくのか、ひきつづき体験しながら考えていきたい。

「時間ができた」

ロックダウンや「ステイホーム」等の政策により、コロナ禍以前の仕事や生活のスタイルが変化することで「時間ができた」と語る人はアート関係者に限らず多かったと思う。コロナ禍で「時間ができた」ことは「職がなくなった」状態であったり「濃厚接触者として隔離中」あるいは「療養中」といった状況でもあり得るが、それまで行っていた「無駄なこと」がなくなった結果としてポジティヴにとらえられることも少なくなかった。今回インタヴューを行ったアーティストたちは、その時間を制作に費やし、新たな作品をつくりだしていた。また観光客が激減したことで深刻な打撃を受けたケニアのソープストーン彫刻の現場においては「時間に余裕ができた」ことは「オリジナルの商品づくり」という新たな創造の可能性にもつながっていた(「ケニア西部ソープストーン彫刻の制作地の現在」)。アートにたずさわる人ではなくても、通勤や「つきあい」に費やしていた時間で新しいことをはじめた人は多かったと思う。それはライフスタイル、ひいては既存の社会制度の見直しにも大いにつながってきた。コロナ禍の初期に、混乱の中で語られていた「新しいことが始まるかもしれない」希望や可能性はどのように今後展開していくのだろうか。

メディエーターという役割

ロジャー・サンシは、メディエーターとしてのキュレーターのあり方を人類学者が学ぶべきものとして指摘する(「人類学者ロジャー・サンシにきく―アートと人類学の未来 Roger Sansi Talks about Art and Anthropology」)。ここでインタヴューを行ったキュレーターたちからも、意識的にさまざまな分野にある人同士をつなぎ、調整する役割が彼ら自身の言葉で具体的に語られていた。このような語りからは「メディエーターとしてのキュレーター」というあり方がすっかり定着していることが分かる。例えば1990年代後半からヨーロッパを中心に活動してきたキュレーターのマリア・リンドは、キュレーションを「物理的な場所におけるものやイメージ、プロセスや人間、場所、歴史、ディスコース」をつなぐ方法と見なした https://www.artforum.com/print/200908/the-curatorial-23737。(*2)ビエンナーレやトリエンナーレといった国際美術展の世界的な急増、そしてサイト・スペシフィックで地理的・歴史的コンテクストが重要視されるアート実践の興隆とともに、ここ20余年のあいだにキュレーターのあり方は様変わりした。それがこの先どのように変化していくのかは、アートと呼ばれるもの/こととそれらを取り巻く状況に密接に関わっている。

女性アーティストの状況

女性のアーティストとして作品をつくり続けることの現実的な困難さについては(聞き手が話をふった訳ではなく)インタヴューの中で複数の指摘がなされてきた。とくに女性が被害者の多くを占めるハラスメントについて(「芸術社会学者の吉澤弥生さんにきく―コロナ禍と芸術文化関係者の苦境」)、そしてジェンダー役割に起因する生活と制作の両立の難しさについては、アート関係者に限った話ではないものの、分野特有の問題やコロナ禍特有の問題が含まれているとも言える。今後、アートの現場におけるそのような問題系の広がりをより注視していく必要があるだろう。

ちがった世界を想像する


 最後にイリナ・グレゴリさんによる論文について追記しながら、その時々の社会状況におけるさまざまなアート/表現、そしてそれらについて語ることの可能性について考えてみたい。グレゴリさんも書いている通り(「社会主義政権下における投獄された女性の身体 The corporeality of the women imprisoned under Romania socialist regime」)、彼女には当初コロナ禍における伝統芸能のあり方について寄稿していただく予定だったのだが、3月に入って執筆テーマを変更したいという連絡をいただいた。緊迫していたロシアとウクライナの情勢が重大な局面を迎え、戦禍を避けてウクライナから近隣諸国へと多くの人が退避する様子は日本でも報道されてきた。ルーマニア出身のグレゴリさんが、このような状況で最も必要と思ったことは「東側」の社会主義政権で生きること、表現することがどのような経験だったのか、それを伝えることだった。
 わたし自身1990年代末から2000年代初頭と2010年代に、ルーマニアやブルガリア、ポーランドで留学や仕事をしていたこともあり、世界に「西」と「東」があったこと、東側がどのような世界であったのかは(決してひとまとめに出来ないが)、それらの地域で生活する中から限られた経験としてではあるものの学んできたと思う。社会はある面ではあまりにも早く変化していってしまうので「民主化」された「東側」の歴史や経験が、そこに暮らす若い人たちのあいだでどれくらい共有されているのかは、はっきり言って分からない。個人差も大きいだろう。
 ウクライナが危機的な状況に至るなかで「東側であった歴史や経験」はもっと国際的に、異なる世代に、知られるべきなのではないか、そんなグレゴリさんの切迫感はダイレクトに伝わってきた。そういった意識はポーランドの「女性スト」に関連する展覧会を企画したワルシャワ近代美術館のマグダレナ・リプスカ(「ワルシャワ近代美術館キュレーター マグダレナ・リプスカにきく―人工妊娠中絶禁止に対する抗議運動と展覧会 《涙の歴史を書くのは誰か》」)にも共通する。彼女たちの展覧会は、中絶禁止法を通して女性の身体が管理されてきた歴史をアートを通して語り直すもので、今後法改正が行われた際にまず影響を受けるであろう若い世代に訴えるものだった(*3)。
 リプスカは、コロナ禍において大規模な反対運動を経験したことで最も重要だった点として、世界の異なるあり方を想像し、現実を自分たちで変えることができるという可能性に気づいたことを挙げていた。現実を変えようとして立ち上がった人々による大きな運動は、人類学者のロジャー・サンシが期待するような(「人類学者ロジャー・サンシにきく―アートと人類学の未来 Roger Sansi Talks about Art and Anthropology」)、現状を変えるための集団の可能性にもつながるだろう。戦争のような圧倒的な暴力が起こり得る世界で、そのようなポジティヴな可能性を心の底から信じること、そのために私たちは何をなすことができるだろう。


(*1):「みる」という語には、例えば「脈をみる」「味をみる」「子ども(の面倒)をみる」「痛い目をみる」など、視覚に限らないさまざまな感覚を用いて観察したり判断したり経験したりするという意味もある(デジタル大辞泉)。ここでは、私たちが視覚偏重のアートとの関わりを想定しているわけではないことを留意しておきたい。
(*2)Maria Lind, “On the Curatorial” Artforum (October 2009) https://www.artforum.com/print/200908/the-curatorial-23737
(*3)ちなみにワルシャワ近代美術館では現在、難民支援のためのチャリティオークション「Refugees Wellcome」のプレオークション展
「Refugees Wellcome: Artists for Refugees
が行われている(2022年4月10日〜5月15日)。同美術館とポーランドにおける移民・難民支援を長年続けてきたOkalenie財団との協働で行われる「Refugees Wellcome」は第6回目となる。今回はウクライナにおける戦争行為とベラルーシ・ポーランド間の国境における危機的状況に際して、より拡充したプログラムが組まれている。

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