西川美穂子(東京都現代美術館)

コロナ禍で美術館は変わったのか?

 新型コロナウィルス感染症の世界的流行は大きな事象であり、人が集まる場所である美術館も少なからず影響は受けている。しかし、2020年を機に何が変化したかがはっきりと見えてくるのはもっと先のことだろう。コロナ前から起きつつあった変化が促進された側面もあるし、元からあった課題が顕在化したとも言える。今はまだ、緊急措置的に変更が細かく行われていて、何かの大きな波に飲み込まれている感覚はありながらも、寄せては引く波の合間から生還した後、どこにたどり着くのか、見えていないように感じる。変化への対応が求められていることは確かであり、インフラや人々の意識の変化がどのように未来の美術館の姿を変えるのか、今後を注視したい。

コロナによる休館と展覧会の中止・延期

 2020年2月末、感染拡大防止のため、日本全国の美術館・博物館が休館した。私の勤める東京都現代美術館は、ちょうど展示替え期間中で、幸い会期の途中で閉める憂き目にあった展覧会はなかった。3月14日に始まることになっていた「オラファー・エリアソン ときに川は橋となる」「カディスト・アート・ファウンデーションとの共同企画展 もつれるものたち」「ドローイングの可能性」の三つの展覧会は、会期をずらし、最初の緊急事態宣言解除後、6月にオープンした。ただし、「ドローイングの可能性」展は、通常3ヶ月の会期のところ、3週間で終了している。当館の場合、その後のスケジュールも後ろ倒しにしながらほとんどの事業を継続することができたが、ほかの館では、海外からの作品と人の移動ができないため、展覧会が消滅したり、延期したり、大きな収益減になった美術館もあると聞く。また、様々な要因で会期をずらすことができず、長期間準備した展覧会が日の目を見なかった場合もあるようで、担当した学芸員や関係者の気持ちを思うと忍びない。展覧会は予算や、レンダーとの契約など、様々な関係性と条件の中で一時的に成り立っており、不測の事態があれば実現しないこともあるということを思い知らされた。美術館学芸員の間ではよく、「明けない夜はない」ならぬ、「開けない展覧会はない」などと言うが、開かないこともあるのだと身につまされる思いがした。展覧会を開けられる正常な状態がいかに恵まれているかということでもあり、今、これを書いている2022年3月、正常な日常を奪われている人たちがいるということを想わざるを得ない。
 行政府を運営母体とする施設の場合、休館や閉室の判断は、自治体ごとの方針によって異なるということも言及しておこう。実際的な感染予防というだけでなく、行政府の意向と一致させるために閉めざるを得ないということも多い。東京都現代美術館でも、2022年1月21日からの重点措置の一つとして都立施設の休館が謳われていたことから、都費で運営されているコレクション展を閉室する運びとなった。一方で企画展は、財団の自主事業として見逃される形で継続した。企画展は一度閉まると会期をずらすことが難しいが、コレクション展は収蔵作品で成り立っているからこそ、後ろ倒しにしていくことも可能である。しかしこのような時、美術館の核であるコレクション展が犠牲になるのは残念なことである。いつもそこにあるものを継続して見せていくことが、日常が上手く機能していない時にこそ、人々の拠り所になるはずだからである。

再開後の美術館

 事前予約制の導入や展示室内への入場人数の制限などの対策を行いながら開館してみると、当館の場合、予想を上回る観客が訪れた。比較的飛沫の飛ばない安全な場所として、美術館はコロナ禍における数少ない外出先の一つとして選ばれたようである。観客の反応からは、ステイホームが続いた後、鬱屈した気持ちを晴らすものとして、直接何かを見て体で感じることを人々が求めているように感じられた。ただし、地域によってコロナ予防に対する感覚も異なり、東京は特別、人流の回復が早かったので、動員が確保できている当館の例は他に適用できるものでもない。いずれにしても、人数制限があることや、海外を含めた遠方からの観客が少ないことなどで全体人数は減っており、動員が完全に戻るまでには、どこの地域でもまだ時間がかかることだろう。
 感染症対策として実現したオンラインによるチケット購入システムなどは、コロナによって元からあった課題が改善された例である。公立美術館の場合、新しいインフラを導入するためにはまず、予算を獲得するための戦略が必要になる。賢く理解のある役人と手を組まなければなかなか実現せず、たいてい計画は遅々として進まない。新しい機械を導入するとか、古い会計システムや案内表示をすべて刷新するとか、通常ではハードルが高く、現場の意見くらいではどうにも改善されないのである。コロナをきっかけに、非接触、混雑緩和といった感染症対策の一環として、オンラインチケットが導入できたのは、一つの前進であった。
 コロナによる人数制限は、皮肉なことに鑑賞環境の改善にもつながっている。これまで日時指定のオンラインチケットがなかなか実現しなかった理由の一つは、そのことによる動員減が収入減につながるので、出資する共催者などが了承しないためでもあった。このたびの感染症対策により、人混みで作品が見づらいことが少なくなり、ゆったりと鑑賞に集中できる環境が確保されたとも言える。より良い鑑賞体験を創出することは美術館の本来的な使命であり、環境の改善に努めなければならない一方、美術館運営の継続性を確保するためには収支を考慮しないわけにもいかない。話題性に振るのか、地味にコストのかからない展覧会で凌ぐのか、そんな二択ではなく、これからの美術館が何を提供していくべきなのか、オルタナティブを模索しなければならない時期に来ていると思う。

国際間の人とモノの移動

 海外から作品を借りる場合は通常、クーリエと呼ばれる人が作品と帯同して来ることが条件となる。中止や延期になった展覧会の多くは、クーリエの派遣ができないために、作品を借りることができなくなったことが要因と考えられる。(詳細は発表されないので、同業者としての推測に過ぎないが。)物流の方は動いているものの、2022年現在も、減便や中国へのコンテナの集中などにより輸送費は高騰しており、これまでの予算規模では展覧会が実現しづらい状況にある。今後ますます、海外の有名美術館の作品を借りてきて見せるようなブロックバスター展に頼ってはいられなくなることだろう。新聞社などが文化事業として展覧会を行うシステムそのものが弱体化しつつあるという課題が浮かび上がったとも言える。演劇や音楽などのホールに比べれば、美術館の打撃はそれほど大きくはなかったものの、コスト増と観客減による収入の減少は、今後の美術館運営に少なくない影響を与えるだろう。すでにあった経営上の課題がコロナによって加速したとも言え、質を担保しながらどのようにコストを削減して展覧会を実現するのか、この時代にどんな展覧会を優先して行っていくべきなのか、戦略の練り直しと取捨選択の必要に迫られている。
現代美術の展覧会では、作家自身が作品設置を行うことが欠かせない。コロナにより国際間の渡航ができない中、当館でも作家がオンラインで指導する形での展示が行われた。オラファー・エリアソンの場合、普段から多くのスタッフを抱えるスタジオで作品制作を行っていることもあり、遠隔であっても適切な指示が行われたと言えるのではないかと思う。マーク・マンダースも空間把握能力に長けた作家自身のスキルにより、印象的な展示空間ができあがった。作家自身が来日できていたら違う展示になっていたかもしれないが、その答えは誰にもわからない。グループ展であるカディストとの共同企画展は、多くの作家が来日できなかったことから、パフォーマンスなどを含む展示内容が変更されたし、作家同士が空間で対峙していたら、別の化学反応が起こったであろうことを考えると、コロナによる影響が展示内容にも大きく影響したと言えるだろう。
 現代作家にとってのコロナの影響は、制作が生活の中から生まれるものであるという点で、様々なレベルで見られると思われる。現在の出来事よりももっと大きな時間軸とパースペクティヴを持って制作している作家にとっては、直接的なインパクトがあるとは言えないかもしれない。しかし、人と人の接触や移動が制限される中、距離や居場所、コミュニケーション、死、孤独といったことを誰もが身近に考えるようになり、作家たちにとっても欠かせないテーマになったのではないかと思う。

オンライン展示

「Viva Video! 久保田成子展」新潟県立近代美術館でのオンライン指導を受けながらの展示の様子

 筆者自身が関わった展覧会として、新潟県立近代美術館、国立国際美術館、東京都現代美術館の3館で開催した「Viva Video! 久保田成子展」でも、作品を管理する久保田成子ヴィデオ・アート財団によるオンラインの展示指導がおこなわれた。2021年3月の新潟での展示では、2週間にわたり、アメリカとドイツをオンラインでつなぎ、2台のカメラで会場の2箇所を同時に見せながら、作品の取り付け方を教わったり、見え方について確認してもらったりした。現場でじかに見ていればすぐに了承されることも、オンラインでは多くの説明を必要とする。オンサイトでも同じことではあるが、何よりも信頼関係が大事だと実感した。時差のある中でのオンライン展示は負担も大きく、双方に展覧会実現への熱意と責任感がなければ成立しなかったと思っている。
 一方で、コロナがきっかけで始まったオンラインによる展示指導は、これまで現地へのクーリエ派遣が絶対的なものであった美術界に新しい可能性をもたらしたとも言えるだろう。信頼関係があれば、ある程度、遠隔でも適切な現場対応と指示が可能であることが判明したのである。現代美術はとくに、作品によっては可変性があり、他者に委ねることも許される開かれたものであるということも、今回、久保田の展示をする中で実感したことでもあった。そうは言っても、より精緻な展示を行うための調査は非常に重要で、作品や資料の実見、インタビューなど、結局、実際に見たり人に会ったりする必要があるため、移動の制限がある中では困難を極める。今回、久保田の財団が、コロナにより、日本における大規模個展を実際に見ることができなかったのは、将来の久保田作品のより適切な展示のためには大きな損失だったと思う。例えば、ヴィデオの色味については、財団からの指示とは別に、国内で作家の生前から作品をよく知るエンジニアのアドバイスに従った。映像の色調は、オンラインの画面越しにはまったく伝わらないからである。展示のために作家や作品の管理者が現場に来るのは当然、実空間にはオンラインでは見えない、より多くの情報があり、それらとの応答で展示が成り立つからであり、オンラインの可能性が発展してもなお、実際に立ち会うことも重要視され続けることだろう。

展覧会の記録と「映え」

 コロナをきっかけに、展覧会の様子を写真や動画で見せる動きも加速した。東京都現代美術館では、最初の休館時、展示が完成しながらも開幕できない期間、展示風景の動画をウェブサイトで公開した。カディスト・アート・ファウンデーションとの共同企画展「もつれるものたち」展では、出品作家の一人である藤井光が観客のいない展示室の様子を撮影した動画を制作している。ほかの多くの美術館でも、コロナ以降、展示以外のオンラインのコンテンツの充実がはかられている。展示内容のオンライン上の公開は、展覧会の広報としても有効になっている。
 2020年秋に開催した「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」展は、大きな反響を得た展覧会だったが、地方や外国の方、高齢者など、残念ながら足を運べなかった方も多く、要望に応えるため、ハイクオリティの360°VRコンテンツとハイライト映像によるオンライン展示アーカイヴを会期終了後の約1年間、公開した(公開終了)。これまでの記録は、静止画による展示風景が中心だったが、一時的な展覧会の記録をより精確に残すため、動画や360°VRなど、複数の媒体で記録しておくことが今後一層求められるだろう。記録のための予算を確保したり、作品を借用する時点で、アーカイヴやその公開まで視野に入れた著作権処理を行うなど、意識的に事前に準備しておく必要がある。
 また、デジタルイメージの拡散は、「映え」という形で、いまや展覧会の広報としてもっとも有効と言っても過言ではなく、美術館に影響を与えている。SNSによる個人の発信が展覧会に影響するというのは、コロナ以前から始まっていたことだが、この2年の間にますます、現代美術の作品や展示風景がセルフィーと共にネットにあがり、それを見た人が来館するというサイクルが定着したように思う。「映える写真が撮れるあの場所に行きたい」というのが、展示の内容よりも先に動機になり得るのである。再生産され続けるイメージの氾濫の中で、マテリアルにじかに触れたいという欲望も感じられるが、その体験もまたイメージに還元されることが求められており、物質とイメージとの関係にかつてない大きな変革が起きているように感じられる。この波は止めようがなく、イメージとその影響を扱う場所である美術館もまた、そのあり方をアップデートしていかなければならない。すでに押し寄せる波で徐々に変化する海外線に我々は普段、気づかないものだが、コロナという事象は、変化の波に備え、未来の海外線の形を予測するきっかけとなったのかもしれない。

西川美穂子 東京都現代美術館 学芸員
キュレーター、芸術研究者。2004年より現職。主な企画に『MOTアニュアル2008 解きほぐすとき』(2008年)、『靉嘔 ふたたび虹のかなたに』(2012年)、『MOTアニュアル2012 Making Situations, Editing Landscapes 風が吹けば桶屋が儲かる』(2012年)、『フルクサス・イン・ジャパン2014』(2014年)、『Viva Video! 久保田成子展』(2021〜2022年、共同企画)などがある。