文:登久希子
2025年の夏まで約1年間アメリカに滞在していた際、ジェフリー・エプスタイン事件がひっきりなしに報道されていた。あまりにもうんざりするような内容だったからか、かけ離れた世界の話のようだったからか、研究者やアーティストの友人・知人との日常的な会話のなかでもアート系のメディアにおいても、それが話題に上ることはほとんどなかった。
転機となったのは2026年1月末である。エプスタイン事件に関する300万ページ以上の文書がアメリカ司法省によって公開され、アートワールドとも深く関わる疑惑が次々と明らかになった。ジェフ・クーンズのスタジオ訪問計画を示す記録や、有力コレクターとのやりとり、疑惑などが、アート系メディアでも数多く取り上げられている。また、ニューヨークのスクール・オブ・ビジュアル・アーツでMFA学部長を務めていたデイヴィッド・ロスは、資金提供をめぐるメールにおいて、服役歴のあるエプスタインに対して企画への支援を求めていた点を学生や卒業生から批判され、学部長職を辞任した。
エプスタインは2008年、フロリダ州で少女の買春などの罪により服役したが、司法取引の結果、13か月という短い刑期に加え、日中は個人の仕事に従事できるという異例の措置が取られた。2019年には未成年者の性的人身売買に関する連邦罪で再び逮捕されている(同年、拘置所内で死亡)。一方で彼は、科学者や大学、研究機関、さらにはアートワールドとも関係を築き、多額の寄付を行ってきた。こうした寄付は、単なる慈善というよりも、レピュテーション・ロンダリング(評判の洗浄)、すなわち「犯罪者」としての汚名を文化的・象徴的資本によって上書きする戦略だったと考えられるだろう。芸術機関や大学がもつ威信や倫理性が、寄付者のパブリックイメージを改善する「浄化装置」として機能してしまうのである。
アメリカにおける文化教育機関の多くは、寄付を重要な財源としている。この問題は「怪しい金を受け取るか、断るか」という単純な選択に還元できるのだろうか。現場に身を置く者であれば、それが現実的でないことは十分に理解されているはずだ。多くの文化機関や大学には、寄付者やスポンサーを審査するための倫理的枠組みやガイドラインが存在している。にもかかわらず、それらが財政的圧力や意思決定構造のもとで、本来想定されている役割を十分に果たしきれない場面が少なくないのではないだろうか。ここで問われているのは、倫理審査の有無ではなく、それがどのような条件のもとで、どこまで実効性・有効性を持ちうるのかという点である。
エプスタイン事件が可視化したのは、倫理審査の不在ではなく、むしろ例外的で問題含みのケースに対して脆弱な制度設計だったと言える。しかも、スキャンダルが表面化した後には、学部長などトップの辞任といった個人責任の処理によって事態が収束し、資金構造や意思決定プロセスそのものは、ほとんど問い直されないまま残されてしまう。
さらに見逃せないのは、こうした問いが、アメリカにおいて大学や文化機関に対する政治的圧力が高まった後に浮上している点である。近年、現政権のもとで、大学の運営や研究内容、ガバナンスをめぐる介入や監視が強まり、公的資金や制度的信頼に依拠してきた高等教育機関の基盤は大きく揺らいでいる。その結果、多くの大学や文化機関は、公的支援の不確実性が増す一方で、私的資金への依存を強めざるを得ない状況に置かれている。このような環境下で再浮上したエプスタイン事件は、単なる過去の不祥事の掘り起こしではない。それは、国家からの統治圧力と私的資本への依存という二重の拘束のもとで、芸術や学術が掲げてきた批評性や公共的価値が、どこまで自律性を保ちうるのかを問い返す契機として現れている。
エプスタイン事件は、芸術や学術が長年依存してきた資金システムの歪みや弱点を、極端なかたちで可視化した。贈与はいつも関係性と負債を生む。「無償の寄付」という言葉が想定する中立性は、多くの場合フィクションにすぎない。問うべきは資金の出自だけではなく、その資金が組織内部にどのような沈黙や忖度をもたらすのかという点である。極端な富の集中と倫理的不透明性に支えられた現代の資金構造のなかで、芸術文化機関は今後どのような姿勢を取りうるのか。その問いは、アメリカのみならず、日本においても、もはや先送りできないかたちで立ち上がっている。
参照サイト
Bishara, H., The Art World’s Epstein Problem, Hyperallergic, February 7, 2026 (https://hyperallergic.com/the-art-worlds-epstein-problem/)
Brown, J. K., For years, Jeffrey Epstein abused teen girls, police say. A timeline of his case, Miami Herald Tribune, November 28, 2018 (https://www.miamiherald.com/news/local/article221404845.html?ref=hyperallergic.com)
Greenberger, A. and Selvin, C, Jeffrey Epstein’s Art World Connections: A Guide, Art News, February 2, 2026 (https://www.artnews.com/list/art-news/news/jeffrey-epstein-art-connections-1234771821/)
(全て2026年2月9日閲覧)