話者:  千葉大学人類学研究室 有志(岩下圭吾・金光海斗・加美夕弦・谷口榮汰・永井拓真)
テキスト編集補佐:  丹羽朋子

以下は2024年11月9日に、5人の大学生が行った対話の記録である。
彼らは、佐藤そのみ監督作品「春をかさねて」と「あなたの瞳に話せたら」を鑑賞した後に行った、対話型のワークショップに参加した。2011年の東日本大震災当時はまだ幼く、時間的にも空間的にも「あの震災から遠い」と感じている彼らは、二つの作品をどう受け止めたのか。繊細な問題やわからなさと向き合い、手探りしながら交わされた率直な言葉が記録されている。

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映画「あなたの瞳に話せたら」より ©Sonomi Sato


「春をかさねて」を観て

A: 亡くなった人たちではない、残された人たちも被災後ずっとつらい中で生きていかなきゃいけないっていうのを感じて、正直何を言えばいいかわからない……。

作品を見てまず疑問に思ったのは、(主人公の)祐未はメイクも恋とかもしないとか、未来への活力みたいなのを閉ざしてたけど、勉強だけはやっていたこと。勉強も未来への投資ではあるけど、彼女はそれさえも罪悪感を感じながらやっていたのか、それとも勉強にはなんらかの意味を見出していたのかが気になった。

B: 勉強に関しては、あんまり判定が良くない模試の結果が映し出されていたから、優等生なのに勉強に力を入れられてないっていう描写だったんじゃないかなぁ。

C: 祐未と友達のれいが対照的に描かれてた。祐未が寂しげにしている隣で、れいは好きな人に会う前にはりきってメイクをしてたりとか、教室の中で机に座る場所も対照的な位置に写されているように見えた。

もう一つ印象に残ったのは、祐未が他の同級生から「しっかりしてるよね」って言われてるけど、自分では「普通だよ」って返してたところ。ラジオからは「町が以前の日常に少しずつ戻ってきましたね」って会話が聞こえてきてて、それなのに自分の心はあの震災前の状況には戻ってなくて……。
彼女は「優等生でいなくちゃ」って意識も強かっただろうから、他者から向けられたそういう自分に対する評価、自分の本来の心がどうであれ、ちゃんとしなきゃいけないと自分を追い込んでしまっているのが辛そう。

D: 「しっかりとした人間として立ち振るまわなきゃいけない」ってプレッシャーや、亡くした妹をさしおいて自分だけ楽しんでいいのかっていう状況におかれる中で、自分の振る舞いは正しいのか、不謹慎じゃないのかと、悩まされることも多かったんだと思う。

E: 亡くなった妹のことを思って「自分だけ恋愛しちゃいけない」と感じていた祐未が、映画の最後では「立派に生きるんじゃなくて、好きなように生きよう」って思うようになる、心情の変化が印象的だった。
たぶん友達のれいの影響で、祐未が化粧品を手に取りそうになるシーンがあったり、逆にれいが祐未の生きる姿勢に感化されて「立派に生きようと思う」って言うように変化したり……と、二人の気持ちの交錯しながら互いに寄っていく。

B: 映画を観て、被災地にはボランティアの人たちが大勢来てたり、学校に千羽鶴とか応援の旗みたいなのがたくさんあったり、家にも記者の人が来てたし、テレビでも(大川小の)事故のことがニュースで流れたりしていて、普通の生活をすること自体が外部から押さえ込まれているんだと感じた。
たとえば千羽鶴は、作った人は応援する気持ちで作ったのは間違いないけど、現地の人からすると見知らぬ人から送られてきてるわけで、実際どう感じるんだろうって、正直疑問に思ってしまった……。
結局のところ「自分が被災者である」っていうことが、どこまでもつきまとう。作品の中では最終的に、”本心を出そう”っていう回答が出されたけど、それでもやっぱり震災のことから全く解放されるわけじゃない。

A: 記者からの“妹さんが今の祐未さんを見たら何と声をかけるか?”っていう質問に対して、祐未が答えなかった意味は大きいよね。物語の最後のシーンの祐未の言葉もそうだけど、この作品の中では、言われてないことの方が逆に一番言いたいところなのかもしれない。
記者の質問については、自分が答える言葉が出てこなかったことへの悔しさなのか、それとも何らかの思いがあったのに言えなくて苦しかったのか……。
もしかして祐未はこの時、ちゃんと妹の存在を考えたのかも。それまでは「自分は被災者だ」という気持ちで取材に答えていたけど、(記者の質問に答えようとした際に)自分の妹と改めて向き合って、彼女だったら何て言うかなと真剣に考えたからこそ、妹のことをしっかり思い出してつらくなったのかも。

C:  「あなたの瞳に話せたら」の手紙の中では、震災の当日の朝に妹からの「おはよう」を無視して後悔はしてるって語りかけた後に、でも、あの妹だったらたぶん気にしてないかな、って話が出てたし、妹は今あっちの世界で楽しく生きてると思ってるとも言ってたよね。(「春にかさねて」の中の)記者の質問に対して、たとえ心の中ではそういう明るいことを思ったとしても、実際に口にしたら楽観視してると思われるかもしれなくて言えないだろうし……。

A: やっぱり、「被災者の家族」を“演じる”って気持ちがあったのかな。学校の友達からも「インタビューすごかったね」とか言われてたし、「模範的な回答をしなきゃ」「みんなが思う被災者像を作らなきゃ」っていうのは常にあったと思う。それが、幼馴染のれいとの仲違いなどを通じて、ちょっとずつ変わっていった。

B: 中学生たちの普通の会話の中で、“震災”っていうものがどう位置づけられているのかっていうことも気になった。震災のことを話題にしちゃいけない雰囲気があったかもしれないし、「新聞の記事に出ててすごいね」って日常会話の中で喋ってたりしたから、震災がある種「普通のこと」って捉えられてるみたいだった。

A: 過去も今も辛いんだけど、その辛さを表に出さず「普通に」過ごすのが暗黙の了解。そんなふうに取り繕わざるを得なかったんじゃないかな。
周りには「へんに暗くしてる場合じゃない!」っていう気持ちをもってる人もいただろうし、そんな中で祐未は逆に自分が取り繕っていることに対して罪悪感を抱いていて、そのあたりの違いがすごく苦しい……。

D: 住人たちが集会所に集まって「見上げてごらん夜の星を」を歌ってる場面では、祐未だけ歌ってなかった。そういう、いかにも元気づけようみたいなのってどうなのかな、と実は以前から思ってた。応援ソングとかあったりするけど、あれって実際はどうなんだろう……

A: そういうのに助けられてる人もいれば、逆にそれを聞いて歌うことをつらいって思う人もいたんじゃないかな。

B: たしかに、その曲が多くの人の総意みたいになっちゃうのは、ちょっと疑問に思った。

A: 二つ目のドキュメンタリー作品の方でも、佐藤そのみさんがご遺族に手紙を書くのをお願いして断られたって話が出てきたけど、被災者の中でも家族に被害があった人とそうじゃない人もいれば、家族に被害にあった人の中にもいろんな意見があって、それを統合して一つに語るべきじゃないということは、両方の作品から伝わってきた。

映画「春をかさねて」より©Sonomi Sato

「あなたの瞳に話せたら」を観て

A: 「あなたの瞳に話せたら」に出てくる3人それぞれのエピソードや要素が、「春をかさねて」に入ってると思った。
そして、最終的には3人みんなが手紙の中で、「亡くなった妹や友人たちの分まで生きる」って話していて、それこそが「春をかさねて」の中で記者から聞かれた質問へのアンサー、「春をかさねて」が最終的に言いたいことだったんじゃないかな。震災のことは排除できないけど、それを踏まえた上で自分の人生を生きるっていうことを考えさせられた。

B: 普通のドキュメンタリーだと生きて活動している人を撮るけど、この作品はちょっと性質が違って、亡くなった方を扱うドキュメンタリー。そういう作品の中でリアリティをどう出すか。そのために「手紙」という形式で死者に問いかけ、死者をいかに映し出すかが考えられていた。

A: この作品が手紙形式でインタビューが入っていないのは、「春をかさねて」で描かれていたように、取材を多く受けてきた人たちだからこそ、インタビューに対する複雑な思いがあったからかもしれない。

C: 「あなたの瞳に話せたら」がすごく面白かった。もちろん「面白い」っていうのは、興味深いっていう意味で。
一つ目の作品(「春をかさねて」)を観たからこそ、震災当初からその後に成長した期間があって、どうやって前を向こうとしてきたのかが想像できたというのはあるけど。
面と向かってインタビューするのとは違って、「手紙」は誰かの前じゃなく一人で書くからこそ、自分の心と向き合うことができる。今まで自分は、将来に震災が来るかも、とは思っていても、実際には体験したこともなく距離があると感じていた。でも、この作品を観て初めて真剣に考える機会をもてた気がする。

A: 哲也さんが手紙の最後の方で「時間は待ってくれないから」っていうところ。ここが、彼にとってはすごく大きなことだったんだろうと思った。
亡くなった同級生たちは震災の時点で止まってるけど、自分はどんどん成長していく……その相違、彼らと年が離れていくこと、時間がどんどん進んでいくのを受け入れなきゃいけないのは、ものすごく辛くて重い。

D: 作品の中に登場する人がそれぞれの使命感をもって、やらなくちゃならないことを背負ってた。本人たちはそんな使命感を背負うつもりはなかっただろうけど、そう生きさせられてるというか、それを楽しんでるかどうかはわからないけど、結果としてそういう人生になってるんだな、と。

E: 哲也さんは「自分が助かったことに何か意味があると思う」って言っていて、最後に本当の自分を見つけていくことについて話していたのが大事だと思った。
大人になってヘアメイクの仕事をしている朋佳さんは、自分が明るくなってみんなを楽しませるっていう使命感を持っていたし、(大川小で語り部をしている)お父さんたちは、「あの日のことを思い出してつらくないのか?」という質問に、「自分たちはこれしかできない、これがあってかろうじて生きることができている」って話していた。そうやって、それぞれ自分ができること、自分の道を苦労して模索している姿が描かれていた。

B: 震災は確実に、その人の人生に影響する。でも、震災を経験していない人でも、自分の人生や生き方を変えさせられるような出来事って、いろいろな形であるんじゃないかと思う。
震災に限らず、何かしらそういう重い経験に自分の人生が縛られてしまう、ずっと引きずられてしまうのは、自分だったらすごくつらい。そういう点で、震災を経験してない人にとっても、この映画は自分自身がどういうふうに過去と向き合って自分の人生を歩んでいくかっていうのを考えさせられる機会になるんじゃないかな。

 


*この対話型ワークショップは、千葉大学文学部の授業「映像人類学」(担当:丹羽朋子)の一環で実施しました。
佐藤そのみ監督はじめサポートくださった皆様に感謝いたします。
本テキストおよび、「佐藤そのみ監督にきく、大川小学校事故をめぐる二つの作品の制作プロセス―フィクションとドキュメンタリーの表現をめぐって(前編後編)」は、JSPS科研費23K20554、22H00011の助成を受けました。