主人公の「俺は長男だから我慢できたけど、次男だったら我慢できなかった」(第3巻24話)という有名な台詞がある。『鬼滅の刃』である。
この作品はコミックスが完結し一大ブームは去ったかもしれないが、日本では大変有名な部類に入るだろう。2.5次元ミュージカル、コンサートやテーマパークとのコラボなど、メディアミックス型の巨大コンテンツとなった。
『鬼滅の刃』は吾峠呼世晴による、2016年より週刊少年ジャンプで連載された作品だ。作品世界には、「鬼」と呼ばれる人を食う怪物がいる。主人公の竈門炭治郎が鬼になってしまった妹を人間に戻すため、私的な武闘集団である「鬼殺隊」に入り、鬼との闘いを通じて成長する物語だ。
冒頭に主人公の台詞として「長男」に言及したものを挙げたが、学部時代に家族社会学のゼミにおり、本務校ではジェンダー/セクシュアリティ論を教える私にとって、鬼滅は「ふわっとした保守」作品だと感じた。すなわち、「家族」の枠組みでもジェンダー/セクシュアリティの視点からも、先進的な点はいくつも見いだせるものの、結局は保守的な枠からはみ出さないのである。これは、だからこそ大衆に受け入れられやすく大ヒットしたのだろうな、と私は考えている。
しかし、私は作品を冷ややかな視点で見ていたわけではない、どちらかというとファンだ。しかもアニメ映画『無限列車編』にはまってしまい、映画には13回以上は通っているし煉獄さん(煉獄杏寿郎/れんごく きょうじゅろう)のフィギュアも持っている。とはいえ、である。
作品を批判的に見ることと、ファンであることは両立するのだ。作品のファンは、作品の最も厳しい批評者でもあり得る。近年とくに、インフルエンサーを使った作品の宣伝が盛んになっているが、私の立場も役割も、作品を全肯定することではない。そうではなく、作品を読み解くことによって何が見えてくるかを伝えることが、私のやりたいことだ。
鬼滅の刃と<近代家族>のノスタルジー
『鬼滅の刃』は大正時代をモデルにしていると上で書いた。この時代は1898年に施行した明治民法が発効しており、今現在の日本の状態とは異なる。明治民法は、戦後の日本国憲法制定に伴い大幅に改正されている。にもかかわらず、『鬼滅の刃』に描かれた「家族の形」は我々の胸に迫ってくる。なぜだろうか。
それは『鬼滅の刃』の家族の形が、現代社会の「家族とはこういうものであってほしい」という理想に極めて近い形であるからだ。そのため大正時代にもかかわらず、当時の風景(?)としてはおかしな描写がある。
例を挙げると、使用人が描かれておらず、両親と子だけで構成される家族が、この物語の焦点となっている。煉獄家のようなもともと武士(=上流)の家であっても、使用人の姿がないのは実は不自然な描写である。この時代、中流階級以上の家には「ばあや」や「ねえや」といった家事や育児を行う使用人がいた。そして主婦という立場の人々はこの時期、上流階級以外にはほとんど存在していなかったと言ってよいだろう。雇われて給料をもらういわゆるサラリーマン家庭は少なく、自営業が多かったが、商屋などであれば、妻は従業員を束ねる家業の重要な位置づけにあった。妻が育児や家事をするかどうかは階級によっていたが、育児や家事以外にも仕事をしていたのである。
いっぽう炭焼きを営んでいる炭治郎一家は、おそらく労働者階級だ。だから使用人はいなかっただろう。1巻には父親が死亡して以来、長男である炭治郎が炭をふもとの街まで売りに行く描写はあるが、母親は家事と子育てしかしていないように見える。つまり、現在でいう「主婦」がいる性別役割分業のある家族なのである。このような家族のことを家族社会学では<近代家族>という(注1)。
このような家族の形は高度経済成長期に主流となったので、意外と最近のことと思われるだろうか。近年近代家族は少数派になりつつある。内閣府が毎年まとめている「男女共同参画白書」令和5年と子供の世帯は40%あったが、2020年には25%と大幅に減った。単身世帯は20.8%から38%へと増えている。専業主婦世帯は1985年には936万世帯あったが、今や430万世帯しかなく、1191万世帯ある共働き家族が多数派である(注2)。
以上のような実社会の状況とは一致せず、皆が理想の形だと思っている家族の姿がこの<近代家族>なのだ。数が少なくなっているからこそ、なつかしく良いもののように思える。少し前、例えば自分が子供だった時代には主流だったものだから理想の形のように思える――こうした心情はよ役割分業のある家族なのである。このような家族のことを家族社会学では<近代家族>という(注1)。
このような家族の形は高度経済成長期に主流となったので、意外と最近のことと思われるだろうか。近年近代家族は少数派になりつつある。内閣府が毎年まとめている「男女共同参画白書」令和5年度版では、1985年と2020年の家族の形態の変化がくっきりと現れていることがわかる。1985年、夫婦と子供の世帯は40%あったが、2020年には25%と大幅に減った。単身世帯は20.8%から38%へとく理解できる。おそらく、この作品が人気を博した原因は、こうした過去を懐かしむ気持ち、すなわちノスタルジーなのではないか。
炭治郎のやさしさと家父長
冒頭の「長男だったから我慢できた」という炭治郎の台詞は、時代設定上よくできている。明治民法が発令されていた時期には「家制度」というものがあった。家族のメンバーの住む場所や、誰と結婚するのかを決められるのは家長(父親)である。家長の役割や財産を受け継ぐのは長男で、年長(姉)であっても女性は継ぐことができなかったし、女性は結婚すると財産を持てなかった。
奇妙なことに、この時代の慣習は今でも残っており、「婿入り」「嫁入り」「跡継ぎ」といった単語は「イエ」のために家族が身を捧げていたその名残だ。炭治郎のやさしさや我慢強さは、責任ある家長のそれなのである。
『鬼滅の刃』では、胡蝶しのぶや甘露寺蜜璃(かんろじ みつり)といった強く美しい女性剣士が活躍する。彼女たちの生き様はかなり主体的で先進的であるといえよう。しかし作品には、当時の一般的な女性にかんしてはこのような状況が描かれることはない。甘露寺や胡蝶は異例中の異例なのである。また、胡蝶しのぶは一流の剣士で鬼殺隊の上官である「柱」と呼ばれる人々のひとりであるが、医学に通じてもいて、傷ついた剣士たちを診察し療養させている。ちょっと働きすぎではないのか。『鬼滅の刃』の女性表象についてもまた、先進的な部分と保守的な部分が交錯しており、大変興味深いのだが詳細は別稿に譲ろう。
異性愛主義とクィアネス
鬼は生殖を必要としない。血を分け与えれば人は鬼となり、仲間を増やすことができる。対して炭治郎側の人間は弱く、すぐ死ぬ。しかし、人間側は最終的に鬼に勝利する。
ここで極めて重要なのは、この物語が大団円として描かれる論理として、異性愛主義と血縁主義があることだ。そもそも、第16巻第137話で鬼の始祖である鬼舞辻無惨(きぶつじ むざん)と鬼殺隊の頭である産屋敷耀哉(うぶやしき かがや)は同じ血筋であることが示され、ゆえに産屋敷の子供たちは病弱で長く生きられないことが明かされる。その業を何とかするために産屋敷家は代々、鬼を滅するという強い信念を持ってきたというのだ。
第23巻最終話(205話)では現代が舞台となり、『鬼滅の刃』のキャラクターの子孫が、元のキャラクターにそっくりな形で現れる。キャラクターの凄惨な死を見てきたわたしたちには、この展開に救われる部分は確かにあったと思う。
しかし、しかしである。結局、個々人の人間はそれほど強くないが、生殖し子孫を残すことが希望であるということになっていないか。炭治郎は25歳までしか生きられないだろうという描写があるものの、栗花落(つゆり)カナヲと結ばれたのだろうと思わせられる。子孫はそのふたりに瓜二つで、名前も似ていることが示される。もちろん、これは美しいことではある。
しかしながら、鬼=悪であり、鬼に立ち向かう人間という二項対立的な論理がある以上、生殖せず増える鬼=クィアであり、異性愛かつ生殖をおこなう人間=善という構図がここに見られるだろう。同性愛者が「生産性がない」と揶揄され(注3)、リプロダクティブ・ヘルス/ライツの意識も低いまま、子供を産まない女性がバッシングされる日本社会において、この論理は多少恐ろしい。
しかしながら、作品には血縁主義的な論理から外れる部分もあることも同時に指摘しておきたい。これは私が『鬼滅』の作者が巧みだと思う部分だ。鬼舞辻との最終決戦が展開されている、第21巻186話、第22巻192話で明らかになるが、炭治郎の特徴的な耳飾りは、炭治郎の家に代々伝わっているものである。そのもともとの持ち主であり、鬼を滅するためのテクニックである「日の呼吸」の始祖、継国縁壱(つぎくに よりいち)と炭治郎の血のつながりはない。縁壱と炭治郎の祖先が縁を結んだというだけのことだ。しかし日の呼吸は炭治郎に受け継がれ、鬼を倒す鍵となる。つまり、縁壱と炭治郎に血縁関係はないが、耳飾りや呼吸は炭治郎の祖先から伝わるという、いわば血縁と非血縁が混交した関係性があるのだ。
以上に論じてきたように、『鬼滅の刃』は、保守的な面と先進的な面が絡み合った作品である。ノスタルジーを呼び起こしつつも、先進的な面で少年少女を惹きつける。だからこそ、大衆に受け入れられる国民的な作品となったのではないか。
(注1)落合恵美子(2021)『21世紀家族へ[第4版]』有斐閣.
(注2)内閣府『令和5年度版男女共同参画白書』4頁 2024年4月4日確認.
(注3)例えば次の記事を参照のこと。発言者の杉田氏は、発言を差別だとは認めていない。安倍龍太郎「杉田水脈氏、同性カップル「生産性がない」など撤回 差別とは認めず:朝日新聞デジタル」『朝日新聞デジタル』2024年4月4日確認.
東京外国語大学世界言語社会教育センター 専任講師。EGSA JAPAN代表。博士(学術)。
専門はジェンダー/セクシュアリティ研究。主著に『生きられる「アート」――パフォーマンス・アート《S/N》とアイデンティティ―』(ナカニシヤ出版、2020年)、『ガールズ・メディア・スタディーズ』(分担執筆、北樹出版、2021年)、The Dumb Type Reader(分担執筆、Museum Tusculanum Press、2017年)などがある。